江戸崎祇園祭の起源

江戸崎祇園祭の起源である明和7年(1770 )、清心庵の「江戸崎與誌」に下記のようなことが記載されています。

「江戸崎與誌」より
其節、大宿羽生田常喜、甚右衛門諸共(もろどもに)信心して、当村鎮守にと御輿を作り、6月27日を祭礼日に定め、本町、戸張町当所の始也(なる)に仍而(よって)、年替に当番して祭礼の殿持仕来り、其後、寛文年中羽生田甚兵衛、石井甚右衛門、本町、戸張町皆同意して、今の御輿を新に改め作拵(つくりこしらえ)、享保8年迄に58年に相成零落破損して見苦敷故(みぐるしきゆえ)、享保8年本町大久保治郎兵衛、幸(さいわい)当番に当り候間(そうろうあいだ)為信心思い立、名主鈴木彦左衛門、梅沢宇平次相談の上、当町の皆々、他町にても信心の輩(ともがら)を進め、人総て御輿並金もの其他獅子、指樽(酒を入れる樽)、きゃ立等に至迄諸道具不残(のこらず)、瑞祥院客殿に於て彩色仕上げし者也。5 月17 日始め6月19 日成就、享保8卯年6月吉日写
天王当番  大久保治郎兵衛殿 持 鈴木彦左衛門(名主)梅沢宇平次(名主)


なお、江戸崎の大念寺にある古文書を調査したところ、安政4年(1857)6月26日付の日鑑(日記)に、次のような記事がありました。
「天王様御祭礼当年者惣普請出来ミコシモ新調ニ付当山門前ニ而相休」云々。

また、「茨城県神社誌」の八坂神社の項に、
「天正年中の創立で、牛頭天王と尊称、鎮座地を信太郡天王村と呼んだ。 元和年中社殿焼失して詳細不明であるが、社伝に天正年中6月、木村某「たわめき」の流れに網を打ったところ、一天拵かにかき曇り、水中放火ただならぬことに驚き、早速揚げたら現に崇敬する神霊であった。 真菰(まこも)に包み奉戴帰宅の途中、豪雨流れるが如し、家迄戻れず「やけぼう」にかけこんだ。三昼夜雷電止まず、早速、天王の社地に仮宮を設けて奉斉した。」


以上、限られた資料ではありますが、

【1】江戸崎の祇園祭は約400年前の天正年代にはじまったこと。

【2】本町(本宿町)と戸張町が交互に当番(神輿の当番)を勤めてきたこと。

【3】江戸崎祗園祭の最初の神輿は約150年前の安政4年に造られたこと。(明治26年に化粧直しをしている記録あり)

【4】江戸崎の天王様のご神体は、小野川の上流から流れてきたものを拾い上げ、真菰に奉置してお迎えし祀ったもの
などがわかります。

本宿町の山車(昭和初期) 浜町の山車(昭和初期) 田宿町の山車(昭和初期)
江戸崎祇園祭のシンボル「土岐桔梗」の軒提灯。

江戸崎祇園祭の期間中は、まちなかの家々の軒先に祭り提灯が飾られます。 その「軒提灯」には全て同じ家紋「土岐桔梗」があしらわれています。これは江戸崎がその昔、江戸崎城主「土岐氏」の統治下で城下町であったことがわかります。隣町の龍ケ崎市も土岐氏の統治下であったため、八坂神社の祭礼には同じ「土岐桔梗」の軒提灯が飾られます。

7月に(祭礼月)に鰻を食べない風習について

江戸崎の天王様のご神体は、小野川の上流(根本)から流れてきたものが鯉と鰻の上にもみ上げられたものを拾い上げ、真菰(まこも)に奉置してお迎えし祀ったものといわれてます。 そのため7月(旧6月)中は、鯉と鰻は神のお供、食べると罰が当たるとして、今でも祭礼が終わるまでは食べません。 旅行先で失念し食べたため、帰町後お祓いを受けたという話を聞いたこともあります。また、桜川村古渡ではえびを食べず、竜ヶ崎市貝原塚の八坂神社の祭礼では、神前に魚を供え 氏子は祇園祭が終わるまで精進料理(品目は25種類もある)を食べるとのことです。この時期は、ちょうど産卵期に当たりますので、一種のタブーとして神と一緒にして食べると、 罰が当たるとして資源を保護したという説もあります。(当時の魚類は、貴重な蛋白源でした。)さらに、おいしいものは下々の者に食べさせるなという、為政者の考えが働いているのでは ないかという説もあります。

祇園祭の起源と御輿(みこし)担ぎのルーツ

祇園祭は、京都八坂神社の祭礼で、葵祭、時代祭と共に、京都三大祭りの一つで、毎年7月17日の神幸祭に
美しい山鉾の巡行があることで名高く有名です。

 清和天皇の貞観11年(869年)に天下に疫病が流行したとき、社司ト部良麿は、勅命に従い、その年の6月7日、当時の日本の国の数に準じて、長さ2丈(約6m)の鉾66本を立て、この月の14日に、洛中の男と洛外の農夫を率いて御輿を「神泉苑」に送って祭り、疫病退散を祈りました。

 これを「祇園御霊会」といい、今日の鉾や御輿をかつぐことの始めとされ、以来疫病などが流行するごとに奉幣祈祷がされましたが、円融天皇の天禄元年(970)から、6月17日を定日として毎年実施されるようになりました。この辺りが「祇園祭」で行われる御神輿かつぎのルーツと考えられます。

江戸崎祗園祭では毎年その年の当番町が神輿を担ぎます。まちなかの10町内が順番で当番町となり、その翌年の当番町は「受当」(うけとう)といわれ、祗園祭の最終日に神輿行列の先頭で露払い(獅子舞の儀)を行います。当番町の順番は、一番町が西町となり、以下、浜・本宿・門前・切通・戸張・荒宿・根宿・田宿・大宿の順となっています。
神輿(田宿町) 神輿(浜町) 神輿(門前町)
江戸崎祗園祭と八坂神社

八坂神社は、江戸崎の中心部から小野川に近い天王(てんのう)地区にあります。 江戸崎祇園祭は、御神輿のご神体が八坂神社にまつられています。 その総本社は、京都の八坂神社。 同じように京都の八坂神社を総本社とする神社は、日本全国に約2300社ほどあると言われております。

祇園祭の起源である京都の八坂神社は、東山の山麓、八坂郷の古い鎮守社で、高句麗系の帰化人、八坂氏の氏神であり、祭神は素戔鳴尊( すさのをのみこと ) です。

素戔鳴尊( すさのをのみこと ) を祇園精舎の守護神である牛頭天王に比定して、祇園社は牛頭天王、祇園天神、武塔天神などとよばれました。 祇園精舎の守護神とされる牛頭天王は、印度九相国、吉祥国の王で、非常に荒神であったため、わが国では 素戔鳴尊( すさのをのみこと ) と再構成され京都八坂神社の祭神とされました。

京都の八坂神社 八坂神社のノボリ 八坂神社(天王町)
江戸崎祗園祭と鹿島神社

「祇園祭」は、本来八坂神社のお祭りですが、江戸崎祗園祭は八坂神社と鹿島神社と合同で行っている大変珍しい祭礼です。

明治5年(1872 )明治新政府は、太政官布告をもって、官社・諸社の別と社格を定め、7月に「郷社定則」を制定し、府・県社、郷社、村社の社格が規定され、これらの社格が与えられない神社を、無格社としました。

そこで、鹿島神社が村社に八坂神社が無格社に格付けされ、これを契機として両社合同で祭礼が実施されるようになったとのことです。

これについて、明治20年8月の八坂神社記録では、「明治の御代の始め、皇国の社務を撰り定むる日に、鹿島大神は村社に列なり八坂大神は無格社となりぬれば、鹿島大神の祭礼に八坂大神の神霊を かねあわせ、神輿の受けわたし執りおこなう祭礼に定りけり」とその由来について記しております。

鹿島神社の境内を登る神輿(本宿町) 拝殿に鎮座する神輿(戸張町)
現在の江戸崎祗園祭と祭りに関わる神事

現在の江戸崎祇園祭の執行、形態は、明治初期から末期にかけて、関係者などが協議し順次整備され、これらを基本として運営されています。

(1)旧正月14日、初市神祭之事
神官、荒宿町、当番町の祭典、世話人が参加し、鳥居下参道で鯉を供える儀式があり、続いて拝殿で本殿祭(祇園始めの行事)が行われていました。 なお、かつてはこの日に、浜町の小野川川岸で川浸しの神事(お尻を川に浸して清める)が行われていたといわれています


(2)旧6月20日、村社並に浜川岸へ七五三下之事

これは祗園祭5日前にお浜下りの神事として行われていたものです。 このことについて、長い間かかわってきた、石野家当主(浜町)の話をまとめてみると、次のようになります。

1.当日の午後、神官、氏子総代、荒宿町、当番町の祭典、世話人が石野家に集まり、川岸に祭壇を設け供物を供える。
2.祝詞奏上の後、舟に乗った神官を「天王棒杭」(常時2 本立っていた)まで運ぶ。
3.川に入った神官は、杭に藁を吊った注連縄を張り、水中から一握りの藻を取ってくる。最後に御神酒奉盃の儀があり、祇園祭が無事執行されることを祈願する。 (藻は、神社に持ち帰り神前に供え、さらに、神社の鳥居にもしめ樽のついた注連縄が張られる。)

なお、藻を取り神に供える神事は、24日までの5日間続けられていましたが、諸般の事情で数十年前から中止され、現在は初日(7月20日)に、引舟橋付近の小野川から藻を取り、神前に供えているといわれます。

以上のように、歴史とともに江戸崎祇園祭の内容も簡略化されてきましたが、基本的な神輿、獅子、山車の運行などは世代を超えて、現在でも受け継がれております。

大正橋たもとの御柱(浜町)
神輿の渡御(田宿町) 御仮屋に鎮座される神輿(荒宿町)
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