えどさき街並みの歴史2~江戸崎発展期
水辺に栄えた江戸崎

江戸崎まちなか地区が栄えるようになり、豪商・豪農など広い意味での町民による独特な文化が花開いたのは、近世のことでした。水辺には、川船を用いて米や醤油など物資が集積し、運び出される港と、周辺の都市的機能を合わせもった「河岸(かし)」が多くできました。

江戸崎の人口は、このころ「戸数100戸を超える」という説から類推すると約3,000人程度だったと思われます。水運は、江戸時代初期に利根川の流れが銚子口に瀬替え(東遷事業)されたことから、江戸崎入り~霞ヶ浦~利根川~江戸川~江戸という内陸運河ができあがり、このルートで大量の物資運搬を安定して行うことが可能となったのです。

【画像左】「天保巡見日記」より「鍋屋河岸」【画像右】大正初年の鍋屋河岸】

近江商人と醤油醸造業

江戸崎は、内藤氏、青山氏、丹羽氏などの大名領や土井氏、牧野氏の佐倉藩領・天領・旗本領を経て、18世紀から明治維新まで関宿藩領となりました。18世紀半ば以降、霞ヶ浦沿岸には周辺の小麦と大豆を原料に醤油醸造業が勃興し、一大産業となりました。

江戸崎まちなか地区では、近江(滋賀県)からやってきた辻田忠兵衛が鍋屋を起こすなど、周辺地域への問屋・小売業をはじめ、醤油醸造業を興しています。江戸崎の醤油醸造業では、このほか、鳩崎の関口八兵衛、君山の井筒屋(飯田)藤右衛門の名前が見られます。

【画像】上菱醤油株式会社製造所(現在の鳩崎)

江戸崎の醤油

右の画像は、江戸末期に作成された醤油番付で、野田、銚子と肩を並べ、江戸崎の辻田忠兵衛が前頭筆頭を含め、3つのラベルで名が上がっている。また、現在も一定の年齢層以上の市民にとっては懐かしくなじみ深い「上菱」の醤油も上がっている。

12代目の関口八兵衛は、醤油のほか、ビール、ソース、さらに茶園経営、煉瓦製造などの事業を展開し、国会議員(第1回帝国議会)に当選するなど、めざましい活躍もした。

【右画像】「関東醤油番付(天保11年(1840)、野田市郷土博物館所蔵)」日本の味 醤油の歴史/林玲子・天野雅敏/2005/吉川弘文館より

江戸崎商人の気質

この時代に活躍した江戸崎商人の特徴は、
1.主体が江戸との商を通して成功した人々(商人階級)であること、
2.事業で成功した利益を地域の活性化のために還元していること、
3.その還元する場として寺院などの施設を利用していること、などが挙げられます。
その典型は次のとおりだが、年表の文化史において異彩を放っています。
・瑞祥院に五百羅漢を建立した豊島和七、その支援者となった鍋屋忠兵衛
・瑞祥院をはじめ江戸近郊の100余か所に石橋を建立した伊勢屋宇兵衛
・大念寺での「定正山八景」(後の江戸崎八景)を詠んだ狂歌師、緑樹園幹有(釜屋)
・霞ヶ浦水難者の大施餓鬼と不動院の万人講(50両をきっかけに200年継続)を創設した関口八兵衛の妻・智豊尼
・「上方・金比羅参り覚書」を残した門前の栗山彦右衛門の先祖、文助

 これらは一例で、たとえば緑樹園幹有の狂歌の座には、周辺の医師、僧侶、神官、商人、農民など様々な階級の人々が集っています。狂歌の座として利用された不動院、大念寺、瑞祥院などはさながら文化サロンの雰囲気を呈していたと思われます。現在も町の行事の一大イベントである祇園祭は、当番町によって御輿・山車を繰り出していることから、江戸時代に現在の形がつくられたことがわかります。

五百羅漢

瑞祥院の五百羅漢は、豊島和七が、盲目の兄の開眼祈祷を願い、住職竜峰禅師と大黒屋庄兵衛など八名の世話人の協力により24年の歳月を経て文化元年(1804)完成させたものである。寄進者は、信太、河内郡、下総、上総、江戸と広範囲に及び、552名が確認できる。現存する羅漢像は、493基で、その内に尊者名の刻まれているものが80基ある。石工は、江戸の伊豆屋藤七である。

伊勢宇橋

瑞祥院の山門前にあるひょうたん池に架かる石橋は、勤勉努力して浅草の大商人となった伊勢屋宇兵衛が、私財を投じて造ったものである。瑞祥院から江戸日本橋に至るおよそ100カ所、また、草津街道にも88の石橋を架けた。これらは「伊勢宇橋」と呼ばれて人々に親しまれたが、今は壊れて無くなった。草津温泉には、「伊勢宇橋」の名が刻まれた石碑が残る。

【画像左】瑞祥院入り口の「ひょうたん池」【画像右】当時から残る「伊勢宇橋」

旧稲敷郡の中心としての江戸崎

文化6年(1809)に起きた「大仏火事」は、浜、戸張、田宿、門前まで当時の市街地の9割(焼失戸数800)を焼き尽くした。それでも町は復興し、江戸崎まちなか地区の隆盛は続きました。

 江戸時代が終わって明治になると、江戸崎郵便局、信太・河内(稲敷)郡役所、江戸崎(稲敷)警察署、江戸崎税務署、江戸崎農学校をはじめ、国・県の出先機関や土浦五十(常陽)銀行等の金融機関の支店などが次々と開設され、ますます旧稲敷郡の中心地としての機能が整備されていきました。

稲敷地域の公共公益施設

明治時代、江戸崎まちなか地区には、稲敷地域の中核公共公益施設が多数立地し、文字通り、中心的な都市として機能した。主なものは次のとおり。 江戸崎郵便局、信太・河内(稲敷)郡役所、江戸崎(稲敷)警察署、江戸崎税務署、江戸崎農学校、江戸崎組合立農学校(江戸崎総合高校)、登記所(法務省)、米穀検査所(農務省)、五十銀行(常陽銀行)など

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